夜の帳の中でゆっくりと手にしたグラスを揺らす。
満たされた赤いワインの水面が左右に揺れ、かすかな水音を立てた。
テラスのテーブルに座っているのは私だけ。
部屋の中では、様々なラヴニカ人たちがひしめき合い、くだらない話をしている。
私は大した権限も無く、ただの賑やかしとしてこのパーティに出席したのだ。
もういいだろう。グラスをテーブルに置くと、このばか騒ぎに別れを告げるべく部屋の中へ戻ることにした。
窓枠に手をかけたとき、誰のものともしれぬ悲鳴が響き渡る。
私の行動が原因だとは思えないが、とっさに手を引っ込めてしまった。
気を取り直し、窓を押し開ける。
先ほどまで、おべっかと自慢、嘘と虚飾で彩られていたダンスホールは、噂話の色で塗りつぶされている。
「殺人事件……」
「殺されたのは……? シミック……?」
漏れ聞こえてくる言葉から何が起きたのかを想像する。
考えてみれば、このラヴニカでは殺しなどの目立った争いは少ない。
誰が被害者であろうと、殺しなどはやはり人々の耳目を集める。
ラヴニカ人は噂好きだ。
「私、見てくるわ……。名探偵プロフトが派遣されるかも!」
吸血鬼がひとり、空中に浮かび上がり、二階へと飛んでいくのが見えた。
「その場を動かないでください!」
来た……面倒ごと……。
アゾリウスの執行官たちがスタッフを持ってホールへ突入してきた。
都市での秩序を守るのは、ボロス軍、そしてアゾリウス評議会。
実際に警察行為を行うのはボロス、裁判や懲罰などを行うのはアゾリウス。
それから先は……くだらないお遊戯……。
尋問、調査、私には関係なかった。
ドレスのシワが気になる時間になって、やっと開放された。
私は、夜の街へと歩き出す……。
翌朝の噂話で持ちきりだった話題はもちろん殺人事件。
ただ、カルロフ邸で起きたものだけではなかった。
裏路地でひっそりと殺された吸血鬼。
カルロフ邸でのパーティの参加者にいたというその哀れな被害者もその晩、殺されたと。
もうすでに一人死んでいるのだ。
誰が死のうと大差ないだろう。そんな気もしたが、人の興味は尽きない。
私のテーブルに朝食を持ってきたゴブリンも、歯の隙間からシューシュー音を出しながら
昨夜の殺人事件について嬉しそうに耳打ちしてくる。
私は、興味深そうなふりをして彼にコインを渡した。
「この事件はお前に任せる」
探偵社のオフィスで、突然告げられた。
「は? え、か、カルロフ邸の事件はどうするんですか」
「それはもちろん捜査するが、お前はいなくても大丈夫だ」
(大丈夫って……。)
任されたのは、パーティの参加者、吸血鬼のオシオスが裏路地で殺された事件だ。
「逆に言うと、ほとんどの捜査員はカルロフ邸事件に対応する。人手が足りないからな、少数精鋭というわけだ」
そんなことは方便だろう。
「頼んだぞ」
突然の仕事のぶん投げ具合に、ほとほと困ってしまったが……。
「まあ、仕方ないか……」
ただ机に座っているだけでカネを貰える立場ではないことは自分が一番分かっていた。
引き出しの一番下にある探偵七つ道具の入った袋を背負って、俺は探偵社を後にした。
「現場100回か……」
探偵の基本だと教えてくれた人はもういなくなってしまったが、俺の中には依然としてあり続けた。
基本がある限り、その人は俺の中にいる。
そして、現場もそこにある。
もう被害者の遺体はそこにはなかった。
しかし、暗がりの中に置かれていた荷物が崩れたままになっている。
木箱は積み上げられていたのであろうが、崩れ落ち、高いところにあったのであろうものに至っては石畳に打ち付けられ割れてしまっている。
壁の……いや、屋敷を囲む塀の間隙は、他の場所からの視線を適切に遮ってしまっていた。
そもそもなんで荷物が崩れているんだ?
犯人と被害者がもみ合ったときにぶつかった?
だとしても、高く積み上げている荷物が動く可能性は低いだろう。
なぜなら、下の荷物ほど、上の荷物の重量を受け、動きにくくなっているはずだから。
ということは、荷物の上で事件は起きた……?
俺は荷物に手をかけ、上へと登っていく、落ちてしまった箱が現場である可能性もあるが……。
果たして真の現場はそこにあった。
箱の上にある足跡。
女物の……ハイヒール? そして、被害者のものと思われるパンプスの足跡。
足跡は決して多くない。
ということは、上でもみ合いはなかったということ。
そして、倒れた被害者が落ちた箱を巻き込んだのだろう。
少量の血が箱の上に落ちている。これが決定打だろうな。
箱を丁寧に調べると、登ったときに引っ掛けたのであろうと思われる服の切れ端が見つかった。
黒い、サテンのような……きらびやかな布地だ。
これが大きな証拠になってくれればいいが……。
カルロフ邸のパーティ出席者の情報を集めるべく、俺は探偵社へと舞い戻った。
探偵社のほとんどの人間が駆り出されているんだ。誰にでも聞けばなんとかなるだろうというのがその魂胆だ。
目論見通り、出席者リストは手に入った。
しかし、リストが答えを知っている訳ではないということも分かっていた。
リストの中で、ドレスを着ていそうな人物……。女性に絞ってピックアップしたとして、数はざっと……。
うん。
こうなってしまうと、証言集めをして、人物を割り出さなくてはならない。
女性のことをよく見ているのは……実は女性だ。
男性が女性のことを見ているというのは大間違いで、男が見ている女性というのは全体を見ているわけではない。
これは俺の持論だ。
というわけで、リストの女性について、片っ端から女性に当たることとした。
にしても、ラヴニカは広いぞ……。
パーティの出席者を嗅ぎ回っている探偵がいるらしい。
もちろん、パーティの出席者は容疑者だ。
しかし、アゾリウスの真理の円が出席者たちの潔白を証明したはずだ。
出席者が今更取り調べられる理由なんてないはず……。
私は、悠然と過ごすことにした。
慌てる方がおかしいのよ。だってそうでしょう。
カルロフ邸で私は誰も殺したりしていないのだもの。
リストのほとんどの女性に声をかけた結果、黒のドレスを纏っていたのは、リストの中では、ディミーアの構成員と目される人物……。
あと何人かいたものの、ドレスを見せてもらい、その疑問は解消した。
しかし、リストの中に出てこないこの容疑者は一体……?
結局、答えは足で探すしか無いという結論に達し、俺はディミーア家の勢力へと向かうことにした。
ダスクマントル、ディミーアの支配圏、その中心と言われる建物。
その近辺だけではなく、ラヴニカの街角、その裏路地、表通り、どこにでもディミーアの気配はある。
とりわけ、俺が好んでいるのは優秀なスパイネットワーク。
そしてそのネットワークを取り仕切っている支部だ。表向きは大衆向きのバー。
だが、その奥には、スパイネットワークの一部を取り仕切る大物のシェイプシフターがいることを俺は知っている。
「シャドウ・ラザーヴにミントは入れられるか?」
「ミントが欲しけりゃ自分でいれな。3番ドアの奥にある」
大抵、こういうところにあるのは秘密の合言葉だ。
「ありがとよ」
テーブルにコインを置いて、3番ドアをくぐる。
薄暗い廊下の先に小部屋があった。ドアを叩く、コツンコツン。
「探偵の坊や、久しぶりね。鍵はかかっていないわ」
ショットグラスを持っている女の姿がある。ゆったりとしたソファに腰掛けた女は私の顔を見ると薄く笑みを浮かべた。
「証拠不十分では誰も渡せないわよ」
「挨拶もなしにそれを言うか?」
「貴方はいつだって実務の話しかしないじゃないの。それで? 今日は何?」
「カルロフ邸に潜り込ませた工作員の話について」
「それをあっさり言うと思うの?」
そういうと、グラスの中の液体を喉に流し込む。
俺は、ポケットの中から煙草を取り出して咥えて見せた。
「何も問題が無いのだとしたら……。隠す理由は無いよな」
「そもそも招待客の中にいない人間のことを尋ねてくることに対して怪しむのは普通じゃない?」
「どうだかな……」
煙草に火をつける。
小さな火が闇の中で揺れる。
「いない人間と話すことはできないか……」
「オルゾフに頼めば……幽霊と話すことはできるかもよ」
「冷静に考えて、ドレスの端っこを落としていくのはいない人間ではないよな」
俺はそっとそれをポケットからだし、見せた。
「……そう、幽霊のドレスを握ってるってわけね。いいわ、会わせてあげる」
「そりゃ、どうも……」
ドアを出て、バーへと戻った。
酒を飲もうとグラスを持ったその時、ドアから探偵社の人間が入ってくるのが見えた。
「この事件から手を引くそうです」
「……どうして……」
「なんでも……」
「ああ。」
「ガイシャが蘇ったとかで……」
「は?」
は?
わからん。
全部わからん。
「ガイシャが蘇ったんだから、殺されたヤツはいない。だからそんなこと調べても意味はない。だそうで」
「そりゃそうだろ……」
バーの前にある看板は、酒を飲み損ねた俺の苛立ちをぶつけられることになった。
「アンタにしては、ヘマをやらかしたようだね。あの坊や、ドレスの切れっ端を持ってたわ」
「あの吸血鬼、空を飛んで箱の上に座ったりしなければ、こんなヘマはしなかったわ」
「そう、でもどんな状況でも完璧にできることがディミーアの条件よ」
「第一、蘇ったって……」
「あの吸血鬼、一度死んでもそこからコウモリになって蘇るらしいの。コウモリがいれば、あとはどうとでもなるってことのようね」
「そんなことなら、ヒルに死体を食わせてしまえば良かった」
「空中に浮き上がったあのとき目が合わなければ、こんなくだらない殺し、やらなくて済んだのに」
「どっちにしても、もう大した問題じゃないわ。貴方がパーティにいた事はあの坊やに知られたし。
かと言って、知られたとしてももう何の問題も無いのよ」
「どうして?」
テーブルに置かれた新聞は、「テイサ・カルロフ殺害される!」と大きく書き立てていた。
(了)